白い台の上に真上から置いた、閉じた濃紺のデニムの長財布。表に白い革のタグ、右端に赤い織りネームと金色の丸いリング。まわりは白い余白

藍は、どこで育てられていたのか

デニムの青は、藍の色です。では、その藍はもともとどこにあったものなのか。青い糸をさかのぼっていくと、川のそばの畑に行き着きます。

藍は植物です。藍と呼ばれる草は世界にいくつかあって、日本で長く使われてきたのは、タデの仲間のタデアイでした。葉は青くありません。ほかの草と同じ、緑色をしています。その葉を刻んで、乾かして、発酵させる。そうしてはじめて、糸を青くする染料になります。

藍で染めることそのものは、紀元前3000年ごろのインダス文明までさかのぼり、日本へは奈良時代に、朝鮮半島を経て中国から伝わったといわれています。

川のそばで、育てられていた

その藍が長く育てられてきたのは、瀬戸内海をはさんだ南、四国の吉野川の流域でした。

淡い木の床に立てて置いた、閉じた濃紺のデニムの二つ折り財布。後ろは白い壁。縁に沿ってオレンジの縫い目、右下に革の引き手

平安時代の終わりに栽培が始まり、室町時代にはこの土地の特産になっていたといわれています。1445年には、大量の藍の葉が畿内へ出荷された記録が残っています。室町時代の終わりごろには、葉のままではなく、染料にしてから送り出していたといわれています。

吉野川は、たびたび氾濫する川でした。洪水は流域の人に大きな被害をもたらしましたが、いっぽうで肥えた土を運んでもいました。豊かな伏流水にも恵まれ、藍を育てるのに向いた土地だったのです。

1585年からは徳島藩が藍づくりを奨励し、江戸時代に入ると、藍は藩の大切な財源として保護されるようになります。藍をつくる人と藍を売る人から集める税が、藩の財政を支えていました。

すくも、という染料

初夏に刈り取った藍の葉は、細かく刻んで乾かします。それを土間に積み、3日から4日おきに水をかけて混ぜ返す。100日ほどかけて発酵を進めると、初霜の降りるころには、黒い土のかたまりのような姿になります。藍の色素が凝縮されたこれが「すくも」です。徳島でつくられたすくもは、阿波藍と呼ばれました。育てるところから染料になるまで、手間と時間のかかる仕事です。江戸から明治のはじめにかけて、それが徳島を中心に大量につくられていました。

すくもは、藩から販売の権利を認められた藍商人の手で、大阪、名古屋、江戸をはじめ全国の市場へ送り出されていきます。藍の畑は四国にあり、それを買いに来る商人は全国から来ていました。育てる土地と、染める土地は、同じとはかぎらなかったのです。

濃紺のデニムの生地の表面の極寄り。斜めに走る綾の織り目と白い横糸の粒。下端にオレンジの縫い目が一本

海の、北側でも

瀬戸内海をはさんだ北側にも、藍で染める土地がありました。いまの岡山県の井原のあたりでは、江戸のなかごろに綿づくりが盛んになり、藍で染めた織物の産地になっていきます。

綿を育て、藍で染め、織る。海の両側で、それぞれの土地が、それぞれの仕事を受け持っていました。

実験室で生まれた青

藍の青い色素には、インジゴという名前があります。1880年、ドイツの化学者が、この色素を実験室で初めて合成しました。1883年にはその構造も確かめられます。工業生産に至るまでにはさらに時間がかかりましたが、1897年、明治30年には量産が始まりました。この一連の仕事は、のちに1905年のノーベル化学賞につながっています。

合成されたインジゴは、植物の藍に含まれる色素と、まったく同じ物質です。植物から採るしかなかった青が工場でつくれるようになり、純度が高く、いつも同じものが、ずっと安く手に入るようになりました。

その明治30年代、阿波の藍は、ドイツから大量に輸入された化学の染料に押され、衰退の時期に入ります。

こうして藍は、畑でとれる農産物から、工場でつくる工業製品になりました。いまジーンズの染めに多く使われているのも、その藍です。

白い背景の前で、右手に持った閉じた濃紺のデニムの二つ折り財布。下に革の引き手が下がっている

同じ青

畑で育った藍と、実験室で生まれた藍。色素そのものは同じです。その色素が糸の中でいつ青になるのかは、糸を染める話で書いています。

デニムの青の後ろには、川のそばの畑と、化学の実験室の両方があります。どちらも、この青の来た道です。

長財布 ― 折らずに平らなまま持つ形。

二つ折り財布 ― 折りたたんで持つ形。

キーケース ― 鍵と小銭を一緒に持つ形。

使うほど、味になる。

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