400年ほど前まで、いまの倉敷の平野の一帯は海でした。大小の島が点在する浅い海で、吉備の穴海と呼ばれていました。

高梁川が運んだ土砂が、その海を少しずつ浅くしていきます。そこへ江戸時代からの干拓が重なりました。海が陸に変わったのは、ある一年のできごとではありません。長い時間をかけて、少しずつ広がっていった土地です。
塩の残る土地で
干拓されたばかりの土地には、塩分が多く残っていました。米づくりには向きません。そこで植えられたのが、塩に強い綿とイ草でした。
江戸の後期にこのあたりを歩いた人が、紀行文にこう書き残しています。見渡すかぎりの田に、その半分以上は綿が植えてあった、と。
ただ、綿がこれほど広がった理由を、土の性質だけに求めるのはたぶん正しくありません。売る先があり、藩の側の後押しがあり、その上に土地の条件が重なった。いくつかが揃った結果として、この一帯に綿が根づいていきます。
布づくりへつながる、一つの始まりでした。
県境は、あとから引かれた線
備前、備中、備後。三備とは、この三つの国をまとめて指す古い呼び名で、いまの岡山から広島の東にかけての一帯にあたります。
綿と布の話は、そのうちのどこか一か所で起きたことではありません。いまの岡山側でいえば児島、玉島、井原。広島側でいえば神辺、福山。離れた土地が、それぞれの事情で綿を扱い、それぞれのやり方で布を織っていました。一本の道筋を順に下っていったというより、いくつもの仕事が並んで動いていた、と言ったほうが近いように思います。似た布が、少し違う名前で、別々の土地から出ていきました。
いまの県境が引かれたのは、この古い区分けよりずっとあとのことです。線の向こうとこちらで、似た仕事が別々に続いていました。
綿を、藍で染める

1619年、水野勝成が福山藩のはじめの藩主としてこの地に入りました。新しい田を開き、領内に綿づくりを勧めます。やがて塩と木綿とイ草が、この藩を代表する産物になっていきました。倉敷の側と同じように、ここでも土地を広げるところから始まっています。
備後で最初の絣が織られたのは1853年のこと。糸を先に染め分けてから織る布で、その作り方が近くの農家へ広がり、副業として根を下ろしました。昭和30年代には、年に300万反が織られています。
井原のあたりでは、厚地の藍染めの綿布がつくられました。明治から大正にかけては、備中小倉という名で大量に織られ、学生服や作業服の生地になり、海を渡って輸出もされています。表は藍で、裏は白いまま。裏白と呼ばれたその布は、アメリカでデニムと呼ばれていた布と、同様の構造を持つものでした。名前がつく前から、同じような布がここにあったことになります。
布は、着るものから持つものへ

児島では、綿の集まる場所から、布と衣料をつくる場所へと仕事が移っていきます。真田紐、小倉織。そこで育った織りと縫いの仕事が、足袋になり、学生服になり、作業着になりました。大正から服装が洋風になるにつれて学生服は急速に広がり、昭和のはじめには、全国の学生服の9割が児島でつくられています。
糸をつくる側も動きました。1881年に児島と玉島へ紡績工場が建ち、1889年には倉敷にも、イギリス式の機械を入れた紡績所ができます。綿を育てる土地から、糸を紡ぎ布を織る土地へ。仕事の重心がゆっくりと移っていきました。
1965年、児島では国内初のジーンズが生産されたとされています。井原でも戦後にジーンズがつくられるようになり、昭和45年ごろには年に1500万本がつくられています。ここでも、話は一本道ではありませんでした。
厚地の綿布は、働く人の服になり、学ぶ人の服になりました。いまでは、着るものだけのものではありません。鞄や財布のように、手に持って使うものにもなっています。
海が陸になり、塩の残る土地に綿が植えられ、やがて糸を紡ぎ、染め、織り、縫う仕事が、この一帯に広がっていきました。400年ほどのあいだに起きたのは、そういうことでした。
ミニトートバッグ ― 肩にかけて持つ形。
二つ折り財布 ― 折りたたんで持つ形。
カードケース ― カードだけを分けて持つ形。
使うほど、味になる。